ジオパークの魅力 硫黄島の産業遺構編 #01

 硫黄島からこんにちわ

地域おこし協力隊の棚次です。前回、風景は知識を得るとより魅力的に見えてくるという話をしました。今回は、硫黄島の産業遺構編です。このテーマで紹介したい写真があります。

じゃーん。

現在はこんな様子。

白黒写真の構造物は何でしょう?島の出身者はよくご存知でしょう。これは、硫黄岳の硫黄を積み出していた橋脚です。撮影時期は、船に小野田セメントの社紋があるので、おそらく昭和39年(1964年)以前と思われます。

昔、硫黄島の埠頭には橋脚型の陸橋があって硫黄鉱石の積み出しに使われました。硫黄島では「ピーヤ」と呼んでいたそうです。名前の由来は英語”pier”と思われます。”pier”は柱そのものや、柱で組んだ構造体を意味します。

そして、この図をご覧ください。この橋脚は、とんでもない所に繋がっていました。 

『三島村誌』 P678

左下方の『積出岸壁』が、写真の場所です。上へたどってゆくと…なんと硫黄岳山頂へ!かつて硫黄島には『索道』と呼ばれる、いわゆるロープウエイで鉱物を輸送する施設がありました。図のように、索道は硫黄岳山頂から港まで繋がっています。写真があるので、どうぞご覧ください。

硫黄岳山頂からお届けします

がーりがり

ざざー

せっせとバケットに積み込み

いたっきもす

 

うえーい

 

うえーい到着ー

ゆくさおじゃいもした

くるん あーれー どざー

運ばれた硫黄は、二本のアームを伝って船へ

硫黄島在住の盛田義春さんは、若い頃にこの鉱山で働いていました。盛田さん曰く。「この橋脚は、硫黄を3時間で1000tは積んでいた。日本一早かった」とおっしゃってました。

 

硫黄鉱山の終焉と人口流出

実は、硫黄岳の自然硫黄は、戦前にほぼ採り尽くされていました。戦後は『昇華硫黄鉱床』という手法で人工的に硫黄の結晶をつくって採っていたそうです。しかし、この手法は採取量に限界があり、利益は徐々に減ってゆきました。しかも運悪く、そのころ海外で、より効率のよい採取法が開発されてしまい、硫黄の価格が下がってしまいました。

硫黄島の企業は、この出来事に打撃をうけて事業を撤退したとされます。そうしたわけで、硫黄採掘事業は、もう島にはありません。戦後わずか19年の昭和39年(1964年)に終わっています。

そして、採掘企業の撤退は、村の経済と人口流出に大きな影響を与えたといいます。こちらは村全体の人口推移を示すグラフ。

『三島村誌』 P30

人口が急激に減っている箇所が、鉱山閉鎖の影響です。硫黄島の人口だけだと、昭和38年が512人で、昭和40年が309人。2年間で203人、51世帯が島を去りました。現在の硫黄島は130人前後なので、減っても倍以上いたのは驚きですが。

その後、硫黄岳の鉱山は、珪石採掘という形で一度息を吹き返しましたが、それも今は休止しています。そして、島には硫黄岳鉱山の産業遺産もまだまだ残っていますが、話にきりがないので今回はここまで。

少し専門的な話もしてしまいましたが、一つの風景のなかには、これだけのお話が眠っています。私たちは、活動を通して島のことを詳しく知ることで、日常の風景をもっともっと面白いものにしていまして、これからその体験をお伝えすることができると思います。

 

まとめ

ここ硫黄島は、7300年前のカルデラ噴火でできた外輪山の一部で、硫黄岳はカルデラ噴火から約2000年後(5300年前)にあたらしくできた火山です。(『ジオパークとは』をご覧ください)

この硫黄岳のおかげで島の環境は特殊なものになっています。まず、硫黄岳の影響で酸性雨がふって、硫黄島に生育する植物は限定されます。そして、硫黄岳の地下を流れる水脈は、各所に温泉をつくっています。

そして、この山で硫黄が採れることから、古来より採掘がされていました。一番古い資料は800年前の平家物語です。このように、島のくらしは、島の成り立ちに影響してできた地形を、うまく活用してきました。こうした背景が硫黄島の独自な文化を生み出している。と、私たちは考えています。調査を重ねてもっと具体的なお話しができると良いのですが。

関連記事